厳しさ。正しく在ること。/ 子を育てるということ。
相手がいくつであれ、
おばあちゃんであれ赤ちゃんであれ
どんな立場や役割であれ、
親であれ子であれ
複雑なことは何もない。
基準は一点
「人としてどうか」
のみである。
人として正しい振る舞いで在りなさい。
それ以外にはないのである。
今、1歳のわが子に現れているのは、
わたし自身の内にある良くない性質の面であり、
わたし自身が、曖昧にしてきたことである。
“なんとなく、いいだろう。”
“相手には、わからないだろう。”
そのような曖昧さである。
いいえ、わかっている。
そして、やればできる。
わからないふりで、やらないのは
我(ガ)である。
厳しくあるべきだ。
人に対する厳しさは当然、自身に突きつけられていることだ。
人の我が儘を許さないことは
わたし自身の我を通させない、通用させないということである。
振る舞いを改めなさい。
そう要求するからには
わたし自身が、改めなさい。
ということである。
わたし自身、未熟なところも、すぐには身につかないこともある。
そのことも受け入れ、謙虚でありながら、向き合い続けなさい
ということである。
厳しくある分だけ、こちらも礼儀を
尽くしているべきだ。
礼儀とは敬いである。
当然、年齢も立場をない。
「人として。」
互いによく観、よく伝えること。
互いの行いをねぎらい、感謝すること。
それが伝わっていないままの厳しさは、寂しさ・不満を生むだけだから。
理解あっての厳しさである。
すべて、わたしである。
“わたしが、人として(常識や道徳的にでなく、本来の意味で)、正しく在りなさい。”
それだけが、すべてを変えるのである。
0コメント