池田晶子 生存すること、死存すること
ー生存すること、死存することー
(流行りのポップスの傾向が、「癒し系」から「励まし系」へ移ってきているらしい、という導入の文章があって)
それはたとえば、こんな歌詞である。
「捨てた夢拾って今遅くないって」
「やればやったで答え自分きっと返ってくるって」
こんなふうな歌詞で、励まされて元気が出るなら、もうけものである。立ち直りのきっかけはどこにでもある。いずれにせよすべては、その人の構えひとつだからである。だからこそ、「癒されたい」とか「励まされたい」とか、他力の構えでいる人は、その同じ理由によって、相変わらず落ち込んだり、あきらめたりを繰返すわけである。したがって、もし私なら、いっそこんなふうに歌ってみたい。
「生きるか死ぬか今覚悟決めなって」
「そうでなければ自分何をやったって同じだって」
時代は今や、「癒し系」「励まし系」から、あとはないぞの「脅し系」へ。
(中略)
(出版界などの、わからんちんな人達の言動を挙げて)
彼らは、哲学の「哲」の字は、手の斤(おの)を口に持つと書くということを、忘れていたようである。口の斤とは、言うまでもなく、言葉(ロゴス)である。哲学とは、何か生きるための知恵か慰みか言い訳めいたものを与えてくれるものだという世間の思い込み、これを脳天から粉砕するのが、本物の哲学なのである。
(中略)
「生きる」の語を、「生活する」「生存する」の意から解放しないことには、人はその本来の意において「生きる」ことは、決してできないのである。
「覚悟決めれば自分何をやったって生きてゆけるって」
大死大活。文句あるか。
池田晶子 著『ロゴスに訊け』
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